閉め切った和室に人影が二つ。薄い暗がりの中でオレンジ色に包まれた灯りの下に影が伸びている。広げた傘を思わせる白いランプシェードはアンティーク調で畳の上に置くにはどこか不釣り合いに感じられてしまう。ランプの傍には布団が二つ、並んで敷いてある。大きいものと小さいもの。磁石に引き寄せられたみたいにくっついていた。
片方には母が横になって寝ている。その視線の先では小さい頃の私が寝息をたてていた。寝たことを確認すると、母はとんとんと叩いていた手を小さな私のお腹からゆっくり離した。同時に私が目を覚ました。目元をこすって母を見る。
「お母さん、寝られないよ」
「なにいってるの、さっきまで寝ていたじゃない」
そう言ったが母は面倒な顔一つせずに笑って私の頭を撫でた。「それなら」母は掛け布団を退かすと、四つん這いのまま部屋の端にある本棚へと向かった。私も体を起き上がらせて母の後ろ姿を目で追う。
「じゃあ、今日はこの絵本にしようか」
戻ってきた母が選んだ絵本の表紙が灯りに照らされる。
イラストではなく絵だった。色鉛筆で描かれた藍と紺で塗りつぶされた海の真ん中には、赤みを帯びた月明りが山吹色の柱となって描かれている。手前側の砂浜には、照らされる灰色の岩に座り込んでいる人魚はこちら側に背を向けている。月明りと同じ色の髪に背は隠れ、後ろには鱗に覆われた尾びれが伸びていた。鱗は銀ではない。たくさんの貝殻で彩られた鱗は、微かに覗いた月明りに反射していた。虹みたいな七色に目が奪われる。
今思えば大きくなった後も本屋でこの絵本を一度も見たことはなかった。家の近くのお店にないだけかもしれないが、母は一体どこでこの絵本を手に入れたのだろうか。
「お母さん。今日は、じゃなくて今日も、でしょ?」
「あれ、バレちゃったか。そう。今日も人魚の絵本を読みます」
絵本を持ったままランプの横で正座をした。私もうつ伏せになって聞く姿勢をとった。
「はーい!」
元気よく返事した私は、口元に人差し指を立てて「しーっ」のサインをされる。私もまねて「しーっ」とする。それがおかしくて二人一緒に小さくクスクス笑った。
ひとしきり笑うと母は絵本を床に置き、小さく膝を叩いた。私は布団から這い出て、母に背を向ける形で膝の上に乗った。首をおおきく逸らして母を見上げると、母も私を見ていた。
「美歩ちゃんはこの絵本好き?」
と、私のお腹に腕をまわしてやさしく引き寄せる。ぴったりと母のお腹と私の背中がくっついて一つの生き物みたいだ。
「うん! みほね、この絵本も好きだけど読んだ後にお母さんの話も好き! お母さんが住んでたまちの話。こないだ行った時ね、思ったの。お母さんの言ってたとおりだって!」
「うん。仰げば目の前いっぱいに広がる高い青空。毎日のように出される魚料理はいつも美味しくて、人と同じように時間を過ごしている野良猫はみんな家族みたいな存在。澄み切った空気をたくさん吸えば、絶対好きになる海街。お母さんはね、あの街が大好きだったの」
「どうしてまちからでてきちゃったの?」
母は顔を上げて逡巡し、すぐに答えてくれた。
「美歩ちゃんとお父さんに会うために出てきたの」
「みほもお母さんとお父さんのことだいすき」
「ありがとね」
噛みしめるように私を愛おしく見つめるとぎゅーっと力強く抱きしめた。
「美歩ちゃん、前に会った女の人いたでしょ?」
「ゆうちゃんだっけ?」
「お母さんの大事なお友達なの。この絵本はね、ゆうちゃんがくれたんだよ」
「そうなんだ! 今度会ったらありがとうって言わなくちゃね!」
「うん、そうだね」
途絶えることのない無邪気な笑い声がいつまでも反芻して、鼓膜を震わせていた。永遠にこの幸せが途切れることはないと信じる純粋さ。
そして、いつも同じ終わり方。電池がきれたみたいに突然笑いが止まって空気が静寂に飲み込まれるのが合図。小さい私がぐるりと首をまわして、二つの大きな黒目で私を見つめてくる。そこには嬉しさも悲しさもなにもない。喜怒哀楽をどこかに忘れてきたみたいに、なにを思っているか全くわからない。
開ききった瞳孔は微かに震え、瞳の奥に深淵がこちらを覗いていた。底知れぬ暗闇、恐怖に心臓が大きく脈打つ。
そうだ、夢なんかじゃない。これは実際にあった過去で、記憶。小さい時の私が繰り返し見せている悪夢だ。
この後、私は母に何と言ったんだろう。
ずっと幸せそうだった母の笑顔に影が差していたことだけはやけに覚えている。忘れちゃいけない、忘れたくない記憶。
だけど、今存在しているのは孤独な私と残酷な現実だけだ。
両親は私を残してここ数年の間に他界した。
始まりは数年ぶりに最高気温を更新した一昨年の夏だった。
父が交通事故で亡くなった。横断歩道の信号待ちをしていたところにトラックが突っ込んできたらしい。父の他にも被害者は出たが死人は一人だけ。病院に運ばれた父は学校に行く私を見送ってくれた父とは別人みたいだった。
毎晩のように泣いていた母の姿を見ても、まだ幼い私は父の死の実感がわかなかった。父が亡くなったあの日から母は交通事故のニュースを嫌った。テレビで流れる度に母の顔は影が差し、音量を下げていた。それから家でテレビを付けなくなるまでそんなに時間はかからなかった。
記憶は今でも朧気で当時唯一覚えていたのは、いつも電池が入ってないテレビのリモコンと、きっとどれだけ待っても父はもう帰ってこない寂しさだった。
制服の袖に腕を通すようになった私は憔悴していく母の背中を毎日見ていた。女手一つで自分を育ててくれていた母にこれ以上苦労をして欲しくなかった。昔の元気だった頃の母に戻ってもらいたい一心だった。稼げない代わりにやつれていく母の身の回りのことを全てこなしていく。高校の受験勉強は進んでいるか毎日聞かれ、消え入りそうな声で謝られた回数は数えたらキリがない。自分の為、そして母親が喜ぶ姿を見たくて身を削るように勉強をした。それでも、第一志望の合格発表の結果を聞いてもらうことはなかった。
母は急死、葬式は翌日に行われた。
母の訃報は祖母からの電話だった。通夜で数年ぶりに祖母はこちらを一瞥するなり声はかけてこなかった。慰めの言葉くらいくれるかと思っていた。
それから自然と私の視線はゆっくりと落ちていた。この場に私と血が繋がった味方はいない。私は、孤独だ。母の安らかな死に顔を見てから、通夜の間ずっと人の顔を見られなかった。親戚たちに気を遣われる言葉が嫌で仕方なかったからだ。私にとって彼らは他人だ。他人から腫れ物扱いされて笑って誤魔化せる気力なんてない。
「ねぇ、きみ」
知らない男性の声に慌てて振り返るが、すかさず顔を伏せた。
「は、はい。なんでしょうか」
しばらくしても返事はなかった。どこかに行ったわけじゃない、こうして足は見えているのだから。
「あの」
すると、時間が経つにつれてまっすぐにこちらを向いていたつま先が傾いていく。片足に重心がかかっている立ち姿で私を見ているということだ。もし機嫌を悪くさせてしまっているのなら謝らなきゃ。
渇ききった喉から声を絞り出そうとするよりもはやく声を降ってきた。
「いつまで足と喋ってるつもり、美歩ちゃん」
「えっ」
両親以外に名前を呼ばれたことに驚いて顔を上げてしまった。
ひょろりとした縦長な背丈の男性が立っていた。顔までほっそりしており、黒縁の眼鏡の奥に覗くのは温厚さとはかけ離れた切れ長の目。ムンクの叫びみたいな人が私の中の第一印象。その男性が母の兄弟、伯父さんだった。
一応小さく会釈すると、引っ越し先が決まるまで私に家に来いと言ってくれた。今は単身赴任で隣町に住んでいるため、距離的には困らないと補足までつけてくれた。それは、つまり私はもうあの家には住めないということだった。
私はその時どんな顔で話を聞いていたかあまり覚えていない。
これまで通りの生活はもうできない。だから、これからどうするかを私が一番に考えなきゃいけないと頭では分かっているのに喪失感の底に突き落とされたまま思考する力すら残っていなかった。這い上がる術を知らないのだから当たり前だ。
ただ、そのせいか彼は私の顔を見るなり時おり言葉を濁していたのだけが気になった。
「あと、これだけ約束。毎日必ず夕方の十八時には家にいること。荷造りするなりそっちの家にいるなり好きにやってくれて構わないが、それだけは守って。俺も落ち着いたら手伝うから、はい」
と、スマホを差し出してきた。
理解出来ずにいると「連絡先」スマホを出すよう催促された。
通夜の帰りは伯父さんの車に乗って一度私の家に寄った。
いつもよりも大きな音で閉まるドアを背に、私は靴を脱いだ。壁に付いてある電気のスイッチを入れて廊下を進む。一度も聞いたことのない床の軋む音に瞬時に足が止まりそうになるが、リビングへと続くドアを開けた。明かりは煌々と付いているが人のいないリビングは映画のセットみたいな作り物に見えた。
私だけが生活するにはあまりにも広く、物の配置が同じだけの別の家のようにも感じる。足早に自室へと向かい、着替えをひたすらにリュックに詰めていく。足りないものがあればまた帰ってくればいい。とりあえずそのリュックだけを背負って顔を伏せたまま玄関へと向かう。
揃えておいたスニーカーに足を滑らせようとすると、靴紐が解けかかっていることに気が付いた。しかも両足。苛立ちながらもいそいそと結び直す。
そうしている間にも伯父さんの言葉が頭の中に反芻していた。明日にでも引っ越しの準備が始まってこの家はどんどん変わっていってしまう。今ですらこの静けさに息が詰まりそうだ。私は振り返らずにドアを開けた。
次に伯父さんの家に行った。右を見ても左を見ても家だらけの住宅街を抜けた先に新築の鉄筋コンクリート造りのアパートが建っている。横の駐車所に車を止めると伯父さんは階段を上がって二階へと行ってしまった。慌てて後を追う。いくつも並ぶドアの横を通り過ぎていき、一番端のドアに鍵を差し込んだ。
「ここ」
と、ぶっきらぼうに言って中に入れてくれた。風呂場とトイレと洗面台とベッドの場所を簡潔に案内され、最後にリビングへとついていった。
「最後に」
と、伯父さんは入ってすぐ近くにある箪笥へと近づいて私を呼んだ。
「ほら、これ持っとけ」
渡されたのは合鍵だった。
「今日はもう遅いしベッドで寝ろ。ここにいる間はずっと使っていいから」
「は、はい」
「それと、あんまり気に病むなよ」
去り際に言われたせいで一瞬聞き逃すところだった。
この日、ずっと伯父さんの顔しかまともに見ていない気がした。
渡された鍵を見ていたのに、びっくりし過ぎて思わず伯父さんの背中を二度見くらいしてしまう。
「悪い人じゃ、ないのかも」
自分に言い聞かせるように呟いた。